忠勇義烈士伝 真理提唱編 第三章 幼女について
幼女について 他一篇
お疲れ様です。サインバルタです。
今日は、《幼女》について《教え》を説きます。
本当は"こどもの日"に書きたかったのですが、明日から多分授業再開して書けるか分からないので、今書いてしまいます。(書き溜めも考えたのですが、今日2つ書く体力は無かったです…。)
物体は、常に《時間》によって支配されています。
時を経るに従い、万物は美しさを損ない、《腐敗》していくのは世の理(コトワリ)です。
これは、女性についても該当します。
歳を重ねた《婆》は、肉体的には勿論、観念的にも醜悪さを帯びるのです。
女性とは、先験的に尊き存在です。
しかしながら、この《物質世界》に留まることによって徐々に腐敗してゆくのです。
喩えば、性別を利用し男性から搾取しようとする《狡猾》さ。
これこそ《婆》特有の、幼女が持つ《純真無垢》の喪失を象徴する腐敗した性質でしょう。
あと、純真無垢、言わば《無色透明》の女性を自らの《色》で染め上げる…魅力的ではないでしょうか。
私も髭を剃って女子小学生を拾いたいものです。
さて、ここからが本題です。
幼女の優越性における本質とは、精神的というより寧ろ肉体的《美》に在ると言って良いでしょう。
幼女の肉体は小さい…。
デカければ善いとする民衆は多数派であることは認識していますし、彼等を否定するつもりはありません。
これは私の《美的感性》に過ぎないのですから。
しかし、幼女の肉体的美について過不足なく語るには、私の言語能力、否、《言語自体の限界》を考慮すると難しいでしょう。
身体において《神(エロス)》を顕現することに対して傲慢であると感じてしまうのかもしれません。
逆に、小さな肉体に対してはある種の奥ゆかしさに似た印象を抱き、惹かれるのでしょうか。
コレ、「秘すれば花」ってヤツ❓
ですが、幼ければ幼いほど善いという道理ではありません。
《華》が"開花"するまで待たなければなりませんから。
《旬》に当たるのは、個人的には12歳頃でないかと思っています。
あと、俗に言うロリババアは個人的には"""アリ"""です。
このロリババアは、時間による肉体的制約を受けない、言わば《観念》における存在であることを前提しています。
従って、《物質世界》において不可避である精神的腐敗について考慮する必要はありません。
寧ろ、幼女に《母性(maternity)》など《精神的豊満》が宿った、ambivalenceであり幻想的な存在が爆誕する道理です。
今日はここまでです。では❗️